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阪村氏のねじと人生

堺工業学校 1

 当時の農家にとって、電気は照明だけであった。ラジオもテレビもない。その闇夜を真昼のごとく明るく照らす電灯は凄いなと思っていたが、その時はそれだけであった。その後、母にもらった一冊の本にもとづき、コツコツと作った(カマボコ板の上にブリキ板で設けた)おもちゃのモーターが回った時の感動は凄かった。

 目に見えない電機で、物体が回る。シャフトを指でつかんでみた。快い振動とともにフル回転し、ビクともしない強力な力が体内を駆け回った。

 「電気ってスゴイ!電気とは一体何者なのか」青いスパークをコンミュテーターから発しながら、いつまでも「疲れた」と言わずに回り続けるモーターを、ただいつまでも見つめていた。10歳のときである。

 その頃は、尋常所学校の6年間だけが義務教育で、あと2年高等小学校へ行くか、5年制の中学校へ進むかは本人の希望で、親が決める事となっていた。

 農業はイヤだ。電気を学びたい。

 そんな時、希望の学校として大阪府立堺職工学校(大阪府堺工業高等学校)が、仁徳御陵のある堺市仙中町に設立されることとなった。「これしかない」と思った。学校の校歌にある“真理の道を究めんわれら”と校章である六角形の“雪の結晶”が気に入った。

 「雪」それは純潔無垢である。その時の気象条件により千変萬化する。水となってはすべての器に従い、汚物を洗っては黙って蒸発し、雪の結晶となっては結束を固め、幽玄にして無限の変化を包蔵する―と礼讃されており、少年の胸を打った。

 さて、受験するとなると難題が・・・。百姓の子に学問は要らん。一日でも早く畑仕事をさせろ―と親族すべての反対である。その中で、母だけが賛成した。学費は、母が阪村家に嫁ぐ前に貯めたお金があるから「心配するな」と、「誰が何と言おうとも、芳一が決めた道には無条件で賛成するから・・・」と絶対的な信頼をもって応援してくれた。

 母は彼の伝説の“信太”から嫁いでいる。陰陽師清明伝説にある―恋しくばたずねて来てみよ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉―に出てくる母狐の溺愛を、母は彷彿とさせていた。

 芳一はその無限の愛に応えるべく受験し、化学機械科に入った。就中、学校では目からウロコが落ちる教育を受けた。同科では、担任の山本英道先生より工業の「工」という字は―天の知恵と、地に満ち溢れた資源を結ぶ人―と表してある・・・と習った。

 「この中間に立つ人とは君達である。1913年、ドイツのハーバーボッシュが、無限にある空気を原料とし、窒素肥料のアンモニア合成で食糧不足を解消している」と同盟国ドイツを讃え、さらに「アインシュタイン博士の盃一杯の水素原子でニューヨーク市が吹っ飛ぶ」と、原子力エネルギーが説明された。

 つまり「日本は弱小な島国だが、周囲は無限の大洋で囲まれた豊かな国である。ないのは君達の頭の中だけである」と訓辞を頂き、それを理解し、夢をふくらませつつ勉強に励んだ。そんな中、英語は二学期で打ち切られた。大東亜戦争がこの年12月8日に始まった。

 8月1日に、ハル国務長官が日本に対する石油の輸出を禁じた。貯蔵してある石油は12月末で底をつき日本の電気・水・車など全てが止まる事態に陥る。理研では原子力の研究に没頭しているが、間に合うはずがない。

 結局、南方進出して、スマトラ、ボルネオのオランダ油田を占領するしか緊急な打開策はない。世情の気運からして、それくらいの事は12歳の少年にも分かっていた。

本紙2003年11月17日付(1914号)掲載。


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