現在位置: HOME > コラム > 阪村氏のねじと人生 > 記事


阪村氏のねじと人生

ねじの町・堺に生まれる

 1928年(昭和3年8月24日)に阪村芳一は、大阪府堺市で農家の長男として生まれた。堺といえば日本で初めてネジを量産した町である。1543年8月24日(天文12年)に芳一の誕生祝いかのように天が鉄砲とネジの加工技術を日本に届けてくれた。種子島に漂着した明国の巨大なジャンク孫東珠号である。海賊商人の王直。ヨーロッパ人としてはじめて日本の地に上陸した三人のポルトガル人と明国人、琉球人、黒人など百二十人は翌年の季節風が吹き始めるまでの半年間、種子島最大の伽藍で、唯一の学問所でもある慈遠寺(809年の創建)36の宿坊に起居した。

 漂着したのは種子島の南端にある門倉崎である。「うわっ!」朝もやをかきわけてあらわれた三本帆柱の巨船の姿に村人は驚き、地頭の西村屋敷に急を知らせた。沖に錨をおろし、小船に乗って上陸した数人の男たちの中に明国人がおり漢文に長じていた西村は砂の上に杖で文字を書いて筆談した。

 「船中之客知国人他何某形之異哉」と今まで見た事もない茶髪、青い目、肌の色、衣服も異形の者について尋ねた。砂上の文字を目で追っていた明国人は、「此是西南蛮他非可怪矣」と書いて南蛮の商人にて怪しむ事もなし、と答えた。さらに「彼らは我々の礼儀を知らない、はし使わず指で食べ、文字はカニが横に走るように書く。利があれば持っている物をぞれが無い所で売る」と続けた。
 
 “鉄砲伝来”と言うが最初は“情報”で始まった。そして地の利によって物が売られ、流れていく有様は470年たった今日でも同じである。

 帆は破れ、船艙や船側は傷み、船板も裂けている傷ついたジャンクは島主・種子島時尭の城下町赤尾木(現西之表市)に引き船で引張ってゆき修理される事となった。地図を見れば分かるように、種子島は黒潮暖流に乗った船が漂着しては修理を行ってくれる資材のある島として古代から船乗り仲間の口コミ情報で知れ渡っていたのではないかと思う。海賊商人の王直が難破したジャンク孫東珠号を種子島に漂着させたのもうなずける。

 その一番の大きな理由として、修理には釘(現在ではネジ)がいる。釘を鍛造するには鉄がいる。この鉄をつくる砂鉄が種子島の鉄浜(かねはま)海岸には黒い砂のように満ち溢れている。岸で採って森で玉鋼にし、和鉄をつくれば色々な形状の和釘が熱間鍛造でもって船の修理箇所に合わせてつくられる。

 この豊富な砂鉄によりつくられる刀等々の鍛造工場をまとめていたのが八板金兵衛清定(1502~1570年)である。彼は銘刀「関の孫六」で知られる(現岐阜県関市)刀鍛冶をしていたが、時はちょうど戦国時代。諸大名の争いや利害によって、鉄や塩の流通ルートが封鎖されることがしばしばあり、そのため金兵衛は良質な鉄を求めて、腕を存分にふるえる砂鉄の島“種子島”に移住した。今で言えば良質な低賃金で豊富な労働力のある中国寧波(ニンポー)への移設である。現在の寧波には日本や台湾のメーカーが進出し世界のネジ、パーツの町へと発展している。

本紙2003年8月27日付(1906号)掲載


バックナンバー

購読のご案内

取材依頼・プレスリリース

注目のニュース
最新の産業ニュース
写真ニュース

最新の写真30件を表示する